『闇に挑む書士 -司法書士・溝部将司の闇金対応記-』
春の終わり、梅雨入り前のじめっとした空気が大阪の空を覆っていた。
司法書士・溝部将司(みぞべまさし)、36歳。彼の事務所は、大阪市内の雑居ビルの3階にあった。築30年の古びた建物で、エレベーターのボタンは何度か押さないと反応しない。だが、そんな場所にもかかわらず、彼のもとには毎週のように相談者が訪れる。
その日、午後2時。事務所のドアが控えめにノックされた。
「どうぞ」
現れたのは、20代後半と思しき女性。髪はぼさぼさで、眼の下には濃いクマがあった。
「…すみません。闇金のことで、相談がありまして」
女性の名前は佐藤恵美(仮名)。3ヶ月前、SNSで「即日5万円融資」という広告を見て、連絡を取ったのが始まりだった。身分証と口座番号を写真で送ると、すぐに5万円が振り込まれた。翌週には返済日。利息は1週間で3万円、実質年利数千パーセントの、完全な違法金融だった。
返せないと、毎日20回以上の電話、勤務先や実家への嫌がらせ、さらには裸の写真をばらまくと脅迫された。恐怖で頭が真っ白になり、ついに限界が来て、ネットで見つけた溝部の名前にすがったのだ。
「恵美さん、大丈夫です。闇金業者は、返済する必要がありません」
溝部の声は静かだったが、確信があった。
「私は司法書士ですが、法的に彼らの取立てを止めることができます」
パソコンに向かい、彼は迅速に「受任通知」を作成した。これは司法書士が正式に依頼を受け、今後の連絡はすべて代理人を通して行うよう通知する書類だ。FAXで送りつけると、ほとんどの業者は一旦沈黙する。
「でも、逆上されたりしませんか?」
「一部には反発してくる者もいます。ですが、闇金は“手間のかかる客”を嫌うんです。こっちが法律武装しているとわかると、大抵は引きます」
事実、その日のうちに3件の闇金業者にFAXを送り、2日後にはすべての業者からの連絡が止んだ。あっけないほど早かった。
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闇金対応。それは、司法書士業務の中でも最も緊張感のある分野の一つだ。
溝部がこの道に進んだのは、司法書士資格を取って3年目、ある高齢女性の遺言執行業務を終えた直後だった。彼女の息子が、遺産を巡って闇金に手を出し、多額の借金を背負っていたのだ。その末路は悲惨だった。取り立てから逃げるために失踪し、最後は事故死。その事件を通じて、「法律で人を守る」ことの重みを痛感した。
それからというもの、彼は闇金対応を専門の一つに据え、全国からの相談を受け付けている。
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6月。別の依頼が舞い込んだ。今度は、建設業に勤める40代男性、田村仁(仮名)からだった。
「もう、俺、死ぬしかない思ってたんですわ…」
田村は借金100万円をわずか3ヶ月で400万円まで膨らませていた。闇金5社からの借入。毎日鳴り続ける電話、職場への嫌がらせ、家族への脅迫。
溝部は、冷静に事実を整理し、取引履歴のない闇金に対しては強気で対応した。さらに、田村のスマホに残るLINEやSMSの証拠をスクショで回収。業者名、口座番号、やりとりの内容を一つ一つ洗い出していく。
「ここですね。この文面、完全に脅迫です」
一つの業者が「子どもに会いたかったら今すぐ金払え」と書いていた。それを見た溝部の眉がピクリと動いた。
「刑事告訴も視野に入れましょう」
彼は地元の警察署の生活安全課と連携を取り、情報提供と被害届の準備を行った。時間はかかるが、場合によっては検挙に至る可能性もある。
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闇金は、法の裏をかいくぐる“知恵”だけは持っている。組織名も変え、連絡手段も変え、時には海外のサーバーを使う。しかし、そんな彼らにも弱点はある。金融庁の登録制度に違反しているという一点だけで、あらゆる取引が無効になるのだ。
「法律って、怖いくらいに力があるんです。でも、それを使える人が少なすぎる」
そう言って、溝部は笑った。
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7月、佐藤恵美は仕事に復帰し、再出発を切っていた。
「本当に、生きててよかったです」
そう言って差し出された手には、爪の隙間に新しいネイルが輝いていた。あのときの怯えた表情はもうなかった。
田村仁も、会社の上司にすべてを打ち明け、借金の整理を進めている。家族とは、ぎこちないながらも食卓を囲めるようになった。
溝部将司の事務所には、今日も相談の電話が鳴る。
「はい、司法書士・溝部です。闇金の件ですね。大丈夫ですよ。私が、あなたを守りますから」
闇に踏み込むのではない。そこから人を引き戻すのが、彼の仕事だ。